『7月29日』という日を忘れぬように。。
唄って参りました。
強い夏の陽が差し込み、心地良い風の吹く中・・
今からちょうど70年前、1945年7月29日
この宮古を最後に踏む「国土」として
この島の地を蹴り「散華」した、
7人の『英霊』の御霊の前で。
詳しい事は昨日も触れましたので割愛します。
よろしければ、前日のこのブログを参照下さい。
今回、古川薫先生との『出逢い』と、
紡がれた『御縁』により得られた「献歌」の機会、
『慰霊塔』を前にして、ギターと三線
まったくの「生音」で演奏させていただいたのは、『島唄』
この場所で弾き、唄うこの曲は・・・
その「言の葉」が、あまりにも様々な事にリンクして
改めて、島から『平和』を切に願った、
宮沢和史さんの意図に感じ入ることしきり。。
「80代そして90代の諸先輩の「お話し」を、残された限りある時間で
我々の世代は、聞く「義務」があると思います。
またそれは、我々の「権利」でもあると思います。
そしてその本物の「史実」を、後世の二十代、十代の若い人達へ
これから生まれて来る子供達へと、伝えていく。
それが我々の「責任」だと思います。
70年を経て、今回初めて知ったこの史実を、
今後忘れる事無く、少しずつでもこの島で伝えていこうと思います。」
・・・そんな言葉を添えて、僭越ながら、
ゆかりと2人「フルコーラス」で、唄わせていただきました。
『慰霊』そして『献本式』を終えて
宮古島市長をはじめ、関係各位の皆様と集合写真を撮った後、
古川先生から「今日はありがとう」・・と、声をかけていただき、
なんと我々への名前とサインを書した『この本』をいただきました
そして、「一緒に写真を撮りましょう」と「慰霊塔」の前で。。
齢90にして完成されたこの先生の著書は
ご自身の「体験」を含めた作品となっているそうです。
「直木賞」作家が戦後70年を経て
『平和』への「想い」を込めて書かれたこの本は、これから後世に、
「こんな時代に、こんな事があったんだよ」
・・・と、悲しい「戦争」の「現実」を示して、
語り継がれる「作品」となる事を切に願いながら、、
今大切に、一行一行かみ締めて、拝読させていただいています。
この場を借りて、今回の「機会」を与えて下さった
古川薫先生へ、深く深く感謝御礼申し上げます。
そして改めまして、
「7人の英霊」の皆様へ、合掌。
「君死に給ふことなかれ」
父親、夫、兄弟、親族、恋人、友人、、
過日の戦時中であれ、いつの時代であれ、誰もが「愛する」その人を・・
そんな大切な支えを、「死」を覚悟せざる終えない『戦地』へ
送り出す事が『心安らかに』できるはずがありません。
「右」でも「左」でも、そんな事はどうでもいい。
ただ1つだけ、確実に間違いない事は、、
もうこうした事は、二度と繰り返してはならない・・と言う事です。
あと2週間と少し『出撃』がながらえば、その命を落とす事はなかった。
そんなまだ二十歳にも満たない7人の若者は、
最後にこの「宮古島」から飛び、「沖縄」の海で最期を遂げた。
そしてその出撃が、『沖縄』への最後の特攻になったのです。
この史実をお店を通してでも、少しでも多くの人に、、
この島で「生業」をする者として『伝えて』いこうと思います。
私にとって、『7月29日』という日は、
忘れ得ぬ日となりました。
さてそんな暑い日差しの水曜ナイト
本来は「定休日」ですが、しっかりと『営業』です。
今宵も「満席御礼」の賑わいの中・・・
なんと『子供達』が3割以上を締める「キッズデー」?
本日もたくさんの「お帰りなさい」とありがたき「出逢い」に囲まれて
やはり最後に唄う曲は・・・『島唄』
こうして小さな子供達が、当たり前のように「平和」の世の中で
元気にお父さんやお母さんと『夏休み』を楽しむ。。
そんな『姿』を見て、感じ入る事、、多いですね。
そしてこの夜も、70年前のこの日7月29日宮古島を飛び立った・・
『7人の英霊』のお話しを少ししながら、
「みんな、今度おじぃやおばぁの『話し』を
聞いてみようね。。!」、、とネ。
お運びいただきましたすべての方々へ
いつもの言葉を・・・
プカラス、たんでぃ~が~たんでぃ~!
強い夏の陽が差し込み、心地良い風の吹く中・・
今からちょうど70年前、1945年7月29日
この宮古を最後に踏む「国土」として
この島の地を蹴り「散華」した、
7人の『英霊』の御霊の前で。
詳しい事は昨日も触れましたので割愛します。
よろしければ、前日のこのブログを参照下さい。
今回、古川薫先生との『出逢い』と、
紡がれた『御縁』により得られた「献歌」の機会、
『慰霊塔』を前にして、ギターと三線
まったくの「生音」で演奏させていただいたのは、『島唄』
この場所で弾き、唄うこの曲は・・・
その「言の葉」が、あまりにも様々な事にリンクして
改めて、島から『平和』を切に願った、
宮沢和史さんの意図に感じ入ることしきり。。
「80代そして90代の諸先輩の「お話し」を、残された限りある時間で
我々の世代は、聞く「義務」があると思います。
またそれは、我々の「権利」でもあると思います。
そしてその本物の「史実」を、後世の二十代、十代の若い人達へ
これから生まれて来る子供達へと、伝えていく。
それが我々の「責任」だと思います。
70年を経て、今回初めて知ったこの史実を、
今後忘れる事無く、少しずつでもこの島で伝えていこうと思います。」
・・・そんな言葉を添えて、僭越ながら、
ゆかりと2人「フルコーラス」で、唄わせていただきました。
『慰霊』そして『献本式』を終えて
宮古島市長をはじめ、関係各位の皆様と集合写真を撮った後、
古川先生から「今日はありがとう」・・と、声をかけていただき、
なんと我々への名前とサインを書した『この本』をいただきました
そして、「一緒に写真を撮りましょう」と「慰霊塔」の前で。。
齢90にして完成されたこの先生の著書は
ご自身の「体験」を含めた作品となっているそうです。
「直木賞」作家が戦後70年を経て
『平和』への「想い」を込めて書かれたこの本は、これから後世に、
「こんな時代に、こんな事があったんだよ」
・・・と、悲しい「戦争」の「現実」を示して、
語り継がれる「作品」となる事を切に願いながら、、
今大切に、一行一行かみ締めて、拝読させていただいています。
この場を借りて、今回の「機会」を与えて下さった
古川薫先生へ、深く深く感謝御礼申し上げます。
そして改めまして、
「7人の英霊」の皆様へ、合掌。
「君死に給ふことなかれ」
父親、夫、兄弟、親族、恋人、友人、、
過日の戦時中であれ、いつの時代であれ、誰もが「愛する」その人を・・
そんな大切な支えを、「死」を覚悟せざる終えない『戦地』へ
送り出す事が『心安らかに』できるはずがありません。
「右」でも「左」でも、そんな事はどうでもいい。
ただ1つだけ、確実に間違いない事は、、
もうこうした事は、二度と繰り返してはならない・・と言う事です。
あと2週間と少し『出撃』がながらえば、その命を落とす事はなかった。
そんなまだ二十歳にも満たない7人の若者は、
最後にこの「宮古島」から飛び、「沖縄」の海で最期を遂げた。
そしてその出撃が、『沖縄』への最後の特攻になったのです。
この史実をお店を通してでも、少しでも多くの人に、、
この島で「生業」をする者として『伝えて』いこうと思います。
私にとって、『7月29日』という日は、
忘れ得ぬ日となりました。
さてそんな暑い日差しの水曜ナイト
本来は「定休日」ですが、しっかりと『営業』です。
今宵も「満席御礼」の賑わいの中・・・
なんと『子供達』が3割以上を締める「キッズデー」?
本日もたくさんの「お帰りなさい」とありがたき「出逢い」に囲まれて
やはり最後に唄う曲は・・・『島唄』
こうして小さな子供達が、当たり前のように「平和」の世の中で
元気にお父さんやお母さんと『夏休み』を楽しむ。。
そんな『姿』を見て、感じ入る事、、多いですね。
そしてこの夜も、70年前のこの日7月29日宮古島を飛び立った・・
『7人の英霊』のお話しを少ししながら、
「みんな、今度おじぃやおばぁの『話し』を
聞いてみようね。。!」、、とネ。
お運びいただきましたすべての方々へ
いつもの言葉を・・・
プカラス、たんでぃ~が~たんでぃ~!
↓ご来店の際はお間違えのないようご注意下さい↓